「ウクライナ?どうして?テロとかも有るし、大丈夫??」
ちゃうちゃう、それはロシアのモスクワでんがな。
ウクライナというと、たいていの人がロシアと混同してくれる。まあ、欧米人が日本と中国をごっちゃにするようなイメージを浮かべてほしい。だから、日本人旅行者が海外で中国人と間違えられたからと言って、憤慨する権利はないのである。
東京に来てすでに2年以上経ってしまったが、その前はウクライナの首都キエフが、私の生まれ育った大阪の次に長く住んだ街であった。学生の時にたまたま受けた交換留学生試験に合格してしまったのだ。私が通っていた大学は、何を血迷っていたのか、第2外国語にロシア語がないのにも関わらず、ウクライナのキエフ大学との交換留学協定を結んでいた。一次試験は英語、2次試験は面接のみ。志願者はほとんどいないも同然で、先攻基準は、「タフかどうか」だったらしい(と、後に選考委員の教授から聞かされた)。初めての海外旅行(ヨーロッパの3カ国を1人で回った)から半年も経たない内に、私は他のでかい男子学生2人に挟まれて異国の地に降り立った。忘れもしない、2月は−30度の寒空。ロシア語どころか英語もおぼつかない私を、暖かく(?)迎えてくれた。涙あり笑いあり冒険ありの一年間が、あっという間に過ぎていき、私はホームステイ先のレーナや他の友人達との再会を約束して、ウクライナを後にしたのだ。
あれからすでに5年は過ぎた。様々な出来事がジェットコースターのように過ぎて行き、私の生活環境も目繰るましく変化していった。なんとか日常会話までこなせるようになったロシア語も、使わないうちに錆び付いていく。東京に来てロシア語教室に通う時間がなくなってからは、どん底に落ちてしまった。
「20世紀中には行けるさ」
そう思い続けて今年、今だ約束を果たせずにいる私が東京で燻っている。会社を辞めても、社会というしがらみが、経済事情という現実が私を縛り付けようとする。この地で、存在理由を見つけるのは嬉しい。しかし21世紀が目前に迫っている今、心の奥底でなにかがざわめく。いつまでもずるずると延ばして行けば...。
後悔するのは、行ってしまってからでも遅くない。まあ、帰国した後もなんとかなるだろう。そのうち、と思い続けて大震災か何かに見舞われて、本当にいけなくなったら洒落にならない。行動力とSame
Maneyがある内に行っとけ!
こうして、私は周囲に顰蹙を振りまきながらも、1999年の9月頃、「黄色い秋」の美しい季節に、ウクライナに行くことを誓ったのであった。